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第2回 人が自然に亡くなる過程 〜「楽な最期」とは枯れるように逝くこと〜 その1
 人は皆、亡くなる前は食事が摂れなくなります。在宅医療の対象となる患者は、すでに食事がとれないか、近い将来、食事がとれなくなる患者がほとんどです。そういう意味でも在宅医療において、食べられなくなったらどうするかという命題は、非常に大きな課題であるとも言えます。機能回復のために、「食べる」努力をすることは非常に重要で価値のある事ですが、いつかはまた食べられなくなります。亡くなる前に食べられなくなる日がくることにはしっかりと向き合う必要があります。

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人が自然に亡くなる過程 

人は亡くなる前に食べられない状態になると、脱水状態となり、徐々に眠くなる時間が増えて、ADL(日常生活動作)が低下していきます。これは、子供の成長と逆と考えて頂ければわかりやすいでしょう。生まれたばかりの子供は自分で寝返りを打つことも出来ません。介護保険で言えば要介護5ですね。これが次第に食事量が増えていき、起きている時間が長くなる。成長と共に介護度が減っていくわけです。

人間の終末期はこの逆です。なぜ、亡くなる前に食べられなくなるかというと、水分を体内で処理できなくなるからです。このような状態で強制的に水分や栄養を取り入れていくと、身体がむくんだり腹水がたまったり、痰が貯まったりとかえって本人をしんどくさせてしまいます。

ですから、私は「身体で処理できなくなったら、できるだけ脱水状態にして自然に看ていくのが最期を楽にする方法ですよ」と説明しています。死は病気ではないので、身体の状態にあったちょうどよい傾眠、ADL、そして食事があれば。呼吸も穏やかに最期を迎えることができると考えています。

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第1回 高齢社会から「多死社会」へ ~その3~

自宅や施設での看取りの普及が鍵

 2005年以降、日本では死亡数が出生数を上回り、人口は減り続けています。そして、2030年代にはわが国の死亡数はピークに達すると考えられています。

 第1次ベビーブームの世代は「団塊の世代」と呼ばれ、現在、この団塊の世代が65才を迎えて介護保険の第1号被保険者となり、介護保険の利用増が見込まれ見直しが迫られています。さらに10年後の2025年には、団塊の世代が後期高齢者となります。介護が必要となり、寿命で亡くなる時代に入るわけです。2025年以降の死亡数のピークは、その団塊の世代の方々が亡くなる時代なのです。

 死亡数が増えた時、今のままでは病院のベッド数はまったく足りません。日本の医療計画では、病床数は減少することはあっても増加することはありませんから、2030年には約60万人の方に看取りの場所がない計算になります。そうなると、これからは自宅や多様な施設などの住み慣れた場所で、看取りを行っていく必要があると思うのです。

 しかし、「介護や住まい、病状など条件さえ揃えば、最期は自宅で」と考える人が多いことは、様々なアンケート調査で明らかになっています。その希望を叶えるためには、社会環境の整備と、「自宅での看取り」という選択肢があることを医療従事者が伝えることが必要です。

 多死社会を迎え、「治療し続けた結果、死を迎える医療」ではなく、「老いや死をしっかりと見据え、最期までどうよりよく生きるかを考えていく医療」への変革が求められているのではないでしょうか。


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第1回 高齢社会から「多死社会」へ ~その2~

「多死社会」とその意味するもの 〜求められる医療の変革〜

 超高齢社会の次にやって来る社会は何か?それは「多死社会」と言われています。「多死社会」という言葉から受けるイメージは暗く不吉なものですが、私達はこの問題にしっかりと向き合っていかなければなりません。

 終戦前までは死亡数は高いレベルですが、その後、死亡率は低下し、1980年くらいまでは人口が増加しても死亡数は増加していませんでした。しかし、それ以降、死亡数が増加しています。

 では、医療の進歩はめざましく、日本の医療レベルはどんどん高くなっているのに、どうして死亡数が増加しているのでしょうか。

 80才未満の死亡数は増加しておらず、増加しているのは80才以上の高齢者の世代のみであることがわかります。これはすなわち、治せる病気は医療により治しているということで、治せない病気や寿命で亡くなる人が増加しているために死亡数が増えているということです。

 多死社会が意味するもの、それは医療ではどうしようもない「寿命」の問題です。多死社会に求められる医療は、医学がいくら発達しても治せないものがあり、「人は必ず死ぬ」ということを念頭に置いて、老いや死にしっかりと向き合っていく医療ではないでしょうか。


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| - | 05:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
第1回 高齢社会から「多死社会」へ ~その1~

世界一の高齢長寿社会である日本

 ご存知の通り、日本は世界有数の長寿国です。1970年に高齢化率が7.1%となり欧米諸国と共に「高齢化社会」の仲間入りをし、1995年には「高齢社会」に、そして2006年には「超高齢社会」となりました。2011年の高齢化率は23%、2012年は24.1%と毎年1%以上高齢化が進んでいる計算になります。1980年代までは、欧米諸国の方が高齢化は進んでいましたが、第2次ベビーブーム後に少子化が進み、日本の高齢化率は急激なカーブを描きながら増加。1990年代から2000年代前半にかけて、あっという間に欧米諸国を追い抜いて、日本は世界一の高齢化率を誇る長寿国となったのです。今後、平均寿命は、2055年には男性83.67年、女性90.34年となり、女性は90年を超えると見込まれています。
 

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世界一、病院での看取り率が高い日本

 

 近年、日本では8割以上の方が病院で亡くなり、癌の方に限れば9割以上の方が病院で亡くなっています。自宅や施設などの住み慣れた場所で亡くなる方は、1割程度にすぎません。しかし、1950年頃は反対に、8割以上の方が自宅で亡くなっていました。1975年頃に自宅での看取り率と病院での看取り率が同じくらいになってから、1980年代以降、急激に病院での看取り率が高くなりました。

 自宅でほとんどの方が亡くなっていた頃には、誰もが看取りを経験していました。しかし、ここ何十年か病院で看取る方が大半を占めるような時代となり、今では自宅での看取りの経験がない人がほとんどで、どのように対処していいかわからず、看取りに対して不安が強くなっています。自宅で最期を迎えたい、家族を看取りたいと思っても、なぜ病院に行かないのかと周囲に言われ、躊躇される方が多いようです。昔は当たり前に行われていた自宅での看取りですが、今の日本では「当たり前でないこと」だと思われているようです。

 次に、世界に目を向けてみましょう。病院での看取り率は、フランスが58.1%、スウェーデンが42%と日本よりはるかに低い値となっています。ナーシングホームやケア付き住宅での看取りが多いのも特徴ですが、いずれも日本より自宅での看取り率も多くなっています。発展途上国やアジアの国々、そして医療費が高い米国でも、はるかに低くなっています。つまり、日本は世界一、病院での看取り率が高い国なのです。

 世界一の高齢化率、世界一の病院での看取り率の高さが、現在の日本の医療の大きな特徴となっています。この問題をしっかりと認識した上で、今後の医療や社会保障制度の方向性を考えていかなければなりません。

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| - | 19:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
村岡医師の救護所

 町を見下ろし呆気にとられていた村岡医師は、「先生、こっち!」と呼ばれ、我に返った。そこには全身ずぶぬれになりながら逃げてきた人がいた。その日の天気は、雪。村岡医師は、避難してきた低体温症の患者3〜4人に、次々と対応した。震えている患者の濡れた服を脱がせ、近くの施設に備蓄されていた毛布でくるむ。さらに、ゴミ袋に穴を開けて被らせ、風をしのいだ。それでも震えが止まらない患者は、ちょうど停車していた警察のワゴン車に乗せ、暖房を全開にした。


 足の骨折には、その辺のダンボールを丸めて添え木代わりにし、ガムテープで固定した。あるものでどうにか対応するしかなかった。村岡医師は、自身のクリニックの看護師と、普段から連携している訪問看護ステーションの看護師とともに、診療を続けた。


 日没頃にようやく、すぐ近くの中学校の体育館が避難所として開放された。折しも11日は、卒業式の前日。整然と並ぶパイプ椅子に、避難民たちがぎっしりと座っていた。しばらくすると、その体育館の真ん中に長机とステンレスの救急箱が置かれた。そして行政の職員が村岡医師にこう告げた。「ここで、救護所をやってください!」「俺だって避難民だ」と思ったが、ほかに医師はいない。やるしかなかった。


 ちなみにこの頃すでに、この中学校には山形のテレビ局が到着し、煌々と明かりをつけて中継を始めていた。そのライトの眩しさを、村岡医師は妙によく覚えているという。


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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
JRS本部長村岡医師のその時
  JRSの活動を本部長として支えたのは、地元の開業医、村岡正朗医師だった。村岡医師は港からほど近い場所にある「村岡外科クリニック」の院長だ。クリニックは津波により壊滅的な被害を受けた。大切な患者カルテもパソコンも、待合室のソファも、何もかもがめちゃくちゃにひっくり返ったまま重油とヘドロにまみれてしまった。クリニック周囲は、地盤沈下のため水没し、院内には近隣の水産工場から流されてきた魚が散らばり、異臭を放っていた。

 村岡医師は気仙沼では数少ない、訪問診療に力を入れてきた医師だ。10年ほど前から、昼の休診時間や休診日を使い、自身のクリニックに通えなくなった寝たきり高齢者を訪問して回っている。気仙沼には2件しかない「在宅療養支援診療所」の看板も掲げており、患者の急変時には夜中でも駆けつける体制だ。



<村岡医師の、その時>


 村岡医師は、3月11日から5月30日まで避難所で暮らしながら、避難所の医療救護所を続けていた。村岡医師の避難所とJRSとは直接の関係はないが、避難所における災害初期の救護活動として、村岡医師の貴重な体験談をここに記しておきたいと思う。

 3月11日、村岡医師はちょうど訪問診療から帰ってきたところで地震に遭った。すぐに防災無線が「10mの津波」と告げたが、その放送を聞いても、津波が来るとは全く思わなかったという。防災無線が津波警報を告げることはしばしばあったし、昨年2月のチリ地震の際にも大津波警報が出され、避難したものの結局津波は来なかったからである。


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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 06:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
在宅支援プロジェクトの目的と役割分担

この在宅支援プロジェクトの目的は、横山医師が提言したニーズの充足であった。前述の3点である。これらのために、沢田医師率いるNPO法人シェア、永井医師、そして早い段階から気仙沼市の支援に入っていた宮城大学、兵庫県とも連携し、チームをつくった。

 中でも急務である「1.在宅の要支援者の調査・把握」のためには、被災地区の全戸調査という人海戦術での調査が必要だった。多数の保健医療職を募り、それぞれを調査が必要な地区に振り分け、市内の被災者のデータを一元化するのである。JRSではこれを「巡回健康相談チーム」とし、沢田医師率いるシェアがコーディネートを担当した。

 「2.訪問診療」は、調査で挙がってきた医療ニーズに対して、訪問診療を行うチームである。1と2のチームが連動することで、JRSは、調査によるニーズの掘り起こしと、訪問診療によるニーズの補完という、JRS内で完結できる医療体制を築いた。

「3.避難所の保健師のコーディネート」は、応援に来ていた兵庫県の行政職員が約10日交代で繋いだ。避難所の救護所に保健師が散ったまま戻ってこられなくなり、正確な情報がはっきりせずに混乱していた状況だったのを、整理せねばならなかった。そのため、100か所を超える避難所を虱潰しに歩き回り、各避難所のタイムリーな状況や、必要な保健師の数などを情報収集してきた。それを宮城県に報告することで、必要数の応援を確保することが目的であった。この係の活躍もあって、4月上旬にはほとんどの保健師が本来業務へと戻ってきた。そしてそれに伴い、この係は任務終了となった。

この3つのチームを合わせた在宅支援プロジェクトには『気仙沼巡回療養支援隊』という名前がつけられた。適切なネーミングではあるが、何とも舌を噛みそうな、またあまりにも長い名前であるため、その後『JRS』(巡回、療養、支援、それぞれのアルファベット表記の頭文字をとったもの)と呼ばれるようになった。以下、私もJRSと記したいと思う。

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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 05:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
気仙沼巡回療養支援隊、設立へ

 横山医師、沢田医師、永井医師の3人は、その日から行動を開始した。まず気仙沼市役所に向かい、保健福祉部長を訪ねた。山間部の在宅で孤立している高齢者がいること、その調査と診療が必要であること、避難所に張り付いている保健師が有効に動くためにコーディネートが必要であること…。

当時、保健福祉部長は次々に発生する数多の問題を前に忙殺されていた。「在宅支援にどの程度の優先順位をつけるべきか悩んでいる様子だったが、横山医師の熱意のこもった説得に、すぐにでもやろうという気持ちになったのだと思う」と沢田医師は振り返る。

結果的に、在宅支援プロジェクトの立ち上げは横山医師に託され、気仙沼市が全面的にバックアップするという体制ができた。保健所長も医師会長も、プロジェクトを歓迎した。その背景には、横山医師が「地元の公立病院の医師」という、全幅の信頼を置ける存在であったことも大いにあるだろう。気仙沼に限らず、「地元」「公立」「医師」に対する信頼や評価は高い。


かくして、在宅支援プロジェクトは始動した。わずか半日程度の出来事であった。


それまでの、津波の直接的な被害に遭った被災者を対象にした医療救護ではなく、直接の被害には遭わなかった人々、家が流されなかった人々を対象にした医療支援の組織が、初めて立ち上がったのだった。

プロジェクトの使命はあくまで「被災から復旧するまでの一時的サポート」。独自の事業を展開するのではなく、行政や気仙沼市内の医療福祉サービスなどが復旧するまで、それらの機関と連携をとりながら、必要な支援を考えていこうとするものだった。


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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 19:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
強力な仲間との出会い その2 永井医師

 時を同じくして、愛媛県松山市の訪問診療医、永井医師が気仙沼に入った。


 永井医師が理事長を務める「たんぽぽクリニック」は、在宅医療専門のクリニックである。そのため基本的に外来診察は行わず、寝たきりの患者をはじめ病院に通院するのが困難な患者を、定期的に訪問して診療している。松山市にはこのような在宅専門クリニックが3件あるが、それでも「たんぽぽクリニック」では600名を超える患者が日々の訪問を待っている。これはクリニックの規模や、永井医師の人柄にもよるが、家にいながら訪問診療を受けられる環境にあれば、それを希望する人々がたくさんいることの証拠でもあるだろう。


 2011年3月。永井医師は、愛媛県という震災の影響のない場所にいながら、甚大な被害を他人事とは思えずにいた。震災後10日頃のニュースでは既に、被災地での医療ニーズが急性期医療から慢性期医療へとシフトしていることが伝えられていた。自宅で寝たきりだった高齢者はどうしているのだろうか。必要な医療や介護を受けているだろうか。医療物資は届いているだろうか。自分にもできることはないだろうか・・・。そんな折に、日本医師会から災害医療チームの募集がかかった。永井医師は真っ先に手を挙げた。


 3月24日、震災からちょうど2週間が経つころ、永井医師はクリニックのメンバーとともに気仙沼に入った。日本医師会から指示された支援活動の内容は、気仙沼市内の避難所での診療業務であった。その朝、永井医師はDMATのミーティングで、こう自己紹介をした。「私たちは、愛媛県で在宅医療専門のクリニックをやっています。自宅に取り残されて支援を受けられていない被災者や、避難所から自宅へ戻る人たちの支援もできればと思っています」すると、前の方に座っていた男性が手を挙げた。「先生!お願いがあります。あとで私のところに来てください」。横山医師だった。


 こうして沢田医師と永井医師が、横山医師のもとに集まった。保健調査と、訪問診療。それぞれのスペシャリストが折良く集まり、気仙沼市の自宅被災者のサポートは、スタートラインに立った。


 2人の医師に共通して言えるのが、気仙沼という被災地で有効な働きができる土壌があったということだ。サービスが行き届かない人へのサポートを業とし、保健活動にも深い造詣と人脈がある沢田医師。在宅専門クリニックの運営を行う、地域医療のスペシャリスト永井医師。普段から地道に、しかし情熱を持って行ってきた仕事内容が、被災地でそのまま生かされることになった。


 もう1つは、ともかく気仙沼まで“来た”ことだ。テレビや新聞の限られた枠内では、またインターネットや電話などの限られた情報では、被災地の圧倒的な現実は見えてこない。例えばこの2人の医師が「何かできることがありますか」と気仙沼市に問い合わせたとしても、おそらくは膨大な情報量の中に埋もれてしまっただろう。もちろん遠隔地からの支援には大きな力がある。しかしその遠隔地からの支援にしても、それをコーディネートする現場の人員が必ず必要だ。自分で足を運び、自分の目で見て、直接人と話すことで、ニーズが見つかる。そしてそこに支援が生まれる。


 ただし、それだけではこの活動は生まれなかった。気仙沼が高低差の激しいリアス式の地形であり、在宅に取り残された高齢者が多くいたこと、そして何より、その人たちへの支援の必要性を認識していた横山医師がいたこと。被災後の混沌とした中で、これらの条件に合致する人間が揃って初めて生まれた。永井医師は活動を振り返り「奇跡のチームだった」と言う。


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著者 西尾浩美さん

 東海大学健康科学部看護学科卒

 気仙沼巡回療養支援隊事務局として活動(2011年3月〜2011年9月)

 2012年7月から青年海外協力隊看護師隊員として

 ベトナムのアンザン省ロンスエン市に赴任中



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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 05:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
強力な仲間との出会い その1 沢田医師

 NPO法人「シェア=国際保健協力市民の会」の副代表、沢田医師が気仙沼に入ったのは、3月23日のことだった。


 シェアは阪神淡路大震災、中越地震など、日本の災害現場での医療救護活動経験を持つ、保健医療系のNPOである。沢田医師はその先遣隊として、支援ニーズを調査にきたのだった。


 実は沢田医師は現地入りする前に、宮城県庁や気仙沼保健所などに電話をし、現状やニーズの有無について情報収集を行っていた。しかし当初の行政からの回答は“人手は足りているから来なくていい”というものだった。おそらく行政機関は3月11日以降、膨大な課題を抱える一方で、そのような問い合わせの対応に追われており、ボランティアの支援先についての情報を提供できるような状態ではなかったのだろう。また仮に「これこれが必要です」と答えたところで、その人が来た頃にはもうそのニーズは充足している可能性もある。被災地では数多の団体が、支援する先を探して各所で情報収集を行い、支援の届いていない部分を探して独自の活動を展開しようと奔走していたからである。

 

 沢田医師も、そのような状況は十分に理解していた。その上で「人手が足りているというよりむしろ、次々くる支援者のコーディネートの余裕がないのではないか」と予測していた。


 その予測には根拠があった。16年前の阪神大震災のとき、沢田医師がシェアの医師として派遣された神戸市灘区。沢田医師は3日目から現地に入り、避難所の救護所を任されていたが、次から次に色々なチームが支援にやってくるため、どのチームにどこでどんな役割を担ってもらうのか、そのコーディネートの難しさとそこへ費やす労力の大きさを、実体験として知っていたのだ。


 だから沢田医師は、気仙沼に入った。ニーズと出会うためには、自分の足で現状を調査することが一番の近道だった。ボランティアの支援は隙間産業である。ニーズが充足されていない部分を見つけ、そこに関わる余地を探っていく。

しかし沢田医師が気仙沼で見たものは、既に気仙沼市立病院と東京都職員などが連携してイニシアティブをとって、DMATの運営を進めており、しかもそれなりにうまく組織されている状況であった。


 「気仙沼では、私たちは必要ないかもしれない」そんな気持ちを抱き始めた3/23の夕方、横山医師と出会った。横山医師は沢田医師に伝えた。「山間部で孤立している高齢者がいる。しかし行政の保健師は避難所から離れられない。誰がどこにいるのか調査し、医療を届けたい」。


 もともと沢田医師は、在日外国人労働者や途上国の人々など、医療へのアクセスが困難な人たちを長年相手にしてきた。ましてシェアは30年近く、国内外での地域保健活動を行ってきた団体だ。医療サービスから切り離されて孤立している要支援者の調査には、NPO団体としてはこの上ない適任であった。沢田医師は、シェアとして中長期的な支援をすることを約束し、調査のための人員を継続派遣すると申し出た。


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著者 西尾浩美さん

 東海大学健康科学部看護学科卒

 気仙沼巡回療養支援隊事務局として活動(2011年3月〜2011年9月)

 2012年7月から青年海外協力隊看護師隊員として

 ベトナムのアンザン省ロンスエン市に赴任中


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| 気仙沼巡回療養支援隊の軌跡 | 05:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
助成金
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